前にもちらりと書いた気がするが、中学生のときラジオでかかった「アローン・アゲイン」を聴いて、なぜだが異常に懐かしい感動を覚えたことがある。「これはぼくのための音楽だ」、と強い心の高ぶりとともに思ったものだった。そんなふうに感じたのはあとにもさきにも「サウンドオブサイレンス」と「アローンアゲイン」、この二つの曲をはじめて聴いたときだけだった。

ぼくの家族が住んでいたアパートの居間にはレコードプレイヤーがあった。が、ぼくが物心ついたころにはそれは壊れていて、というか針がなくて、それでレコードを聴いた記憶は一度もない。もしかしたら、幼かった兄やぼくが壊してしまったのかもしれない。そう思うのは、わけもなくターンテーブルを回したりでたらめにボタンを押したりして機械操作ごっこをして遊んだ記憶はあるからだけど。そのプレーヤーの置いてある戸棚の下の開き戸の中には、しかしまだ十数枚のレコードは残っていて、あるときその中にぼくは「アローン・アゲイン」の入ったレコードを見つけたのだった。それはギルバート・オサリバンのではなく、森山良子による日本語カバーのものだったが。そのときは聴いてみることはできなかったが、これだろう。




それを見つけたとき、ぼくはある納得感とともに思ったものだった。「アローン・アゲイン」をぼくは聴くまえから聴いていたのだ、と。母にそれを尋ねたことはないが、ぼくがお腹の中にいるときか、あるいは乳児だったころに、きっと聴いていたのだ、それだから、初めて聴いたときに、あんなにも懐かしく、どうしようもなく惹きつけられてしまったのだと。しかし、そのレコードを聴いていたはずの当の母はオサリバンの名前すら知らなくて、ぼくがオサリバンの名前を告げると、「なにそれ、オバタリアンみたい」と言ったのだったが・・・

父は「音楽は雑音」とのたまってはばからない人種であった。フォーク趣味はかつての母のものだった。もちろん母の若いころ、ふつうに流行っていた音楽でもあっただろう。「神田川」とか「なごり雪」とかそういう和製フォークが70年代あたりに流行っていたのだ。母の直接の影響ってのはないが、母子でどこかしら趣味の重なる部分もあるのだろう、ぼくも自然と日本のフォーク音楽にも好意を持っていたし、熱心なポールサイモン支持者ってことを知ったので、さだまさしにはとくに関心を持っていたものだった。さだは作曲や歌唱はほどほどなところだけど、作詞の面では確固としたスタイルがある。「案山子」とか「防人の詩」とか、いいよね。さだに関しては、のちに母本人に直接昔好きだったことを聞いたし、母の実家でグレープのレコードを見つけもした。
子にとって、親の若いときというか、自分が生まれるまえの親のことなんて、およそ世界の端の向こうの不確実の場めいて思える。自分の存在しない世界がかつてあって、いま自分が聴いている音楽を母が聴いていたっていうただの当たり前の事実だが、単純には飲み込めない不思議なことのような気もしてくる。

余談だが、さだに関しては、佐野元春がMCやってた「僕らの音楽」という番組のことが記憶に残っている。そこでさだは聴衆の学生たちとやりとりしながら曲をつくるというようなことをした。聴衆に詩のアイデアを求めて「この情景いいけどピンクって言葉は使いたくないな。なんか別のいいかたないかな?」「じゃあグレープフルーツの色で・・・」(このとき学生はさだがかつて「グレープ」というグループに属していたことをきっと知らなかったろう)とかいいながら。それで、さだが、さあやるよって合図もなく不意にギターを爪弾いて「グレープフルーツの~」って口ずさんだとき、ざざぁっと風が麦の穂を揺らすように、声にならない感動が聴衆のあいだに沸き立つのが分かった。テレビでみているぼくも、同じ感じを受けた。あれは素敵だった。それは、「歌」が生まれる瞬間、だったのだと思う。

といっても基本的に母と音楽の話をしたことはないし、母が積極的に音楽に興味を持つのを見たこともないし、母に自分の聴く音楽をすすめるってこともなかった。ただ大学生のころ、サニーデイサービスが人気でてたころ、どう考えても和製フォークリバイバルなわけだし、これなら母に届くだろうと思えて『東京』をカセットテープに録って送ったことがある。どういうきっかけだったのか覚えていないが、そんなことをしたのは、あとにもさきにもそれ一回きりのことだった。



母の返答としては「あんた、なんで私の好きなのが分かるん?」ってのだったが、ぼくとしては「そりゃあねえ、だいたいはね」って。