ぼくの好きだった音楽

歌が答えであったことはなかった ただ人生のサウンドトラックってだけだった

バッッシュト・アウト/ディス・イズ・ザ・キット

もう30回くらいは聴いたけど、ど傑作だ。
じつは前作の「ウィグルドアウトザレストレス」の、週末に音楽仲間が集まってコテージで演奏するみたいな空気感が最適なのかなとか思っていた。なのでリード曲とかをネットで聴いてロックサウンドよりになっていることが正直不安だったのだけど、まったくの杞憂だった。ケイトステイプルズの資質をぼくは見誤っていた。気持ちよく間違いを認めよう。前作を凌ぐ傑作だ。 

ケイトステイプルズの作曲の基本スタンスは変わっていない。しかしプロデュースのアーロンデスナーの功績だろう。ナショナル直伝のオーガニックで非常に緻密で洗練されたバンドサウンドに乗っかることで、コテージから海岸に出たみたいな広がりが生まれている。 音数は増えているわけだが、その中でケイトの声は埋もれるということはなくて、むしろ、フォークサウンドで鳴らされているときよりもより浮き出しているように思える。ぷっくりと立体感を増し、白磁のように、まろやかに微光を帯びている。ケイトの曲と声を生かすバンド音楽のヴィジョンがアーロンデスナーには最初からあったのだろうな。素晴らしい。

曲も良くなっている。前作では一、二曲いまいちなものがあったりしたのだけど、このアルバムは全曲いい。曲想もいい具合にヴァラエティがあって、物語性と言うか起伏があって飽きない。曲が終わって、次の曲のイントロが鳴ると「きたきた」って胸が膨らむ感じ、そんな風に感じるのっていつぶりだろう? 

導入の「ミスアンダーステンディング」からの、2曲目の「シルバージョン」で窓を開けるみたいに一気に世界が広がる。オーソドックスなエイトビートロックが持つ開放感。ぼくは単調な和音を鳴らすシンセサイザーにいつも納得いかなかったのだけど、この曲で認識が変わった。そのシンセが途切れて「settle down silver john~」ってくるところでもうシビれる。「バッシュトアウト」は二つ目のハイライトだろう。ちょっとジャズを思わせるメランコリックな旋律で、ノラジョーンズの「ドンノウワイ」のインパクトを思い出す。カントリーっぽいためのあるギターで始まる「ニッツ」の「scattered on the green hill 」というとフレーズとメロでまたシビれる。それからレイディオヘッドの「レコナー」を思い起こす、「ヴィタミン」の硝子細工のようなアルペジオのイントロの綺麗さ。「ウィーアーイン」はディスイズザキットが一皮向けたことを示すシンボリックな一曲。ピアノとシンセだけのアレンジでギターがあまり鳴らない。ケイトステイプルズの弾き語りスタイルを基盤にしたこのグループとしては異色だが、超省エネメロなのにパノラミックな風景が広がる名曲。スノウパトロールの「チェイシングカーズ」みたいな受け方をしたっておかしくはないと思うのだが。




でも弾き語りヴァージョンもふつうにいいな・・・。

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数日前、ぼくは部屋でこのレコードを聴いていて、なんだが疼くような気分に駆られて、夜の散歩に出た。
ぼくはこの十数年で三度の引越しをしたけれど、前の住所は歩いていける距離にある。かつてよく通った道なんかを通ると、ノスタルジーとも愛惜ともつかない思いがふっとかすめることがあるのだけど、ディスイズザキットを聴きながら、その道を目にしたとき、あの神社の脇を抜ける小道を見下ろしたとき、吹き上げる風を総身に受けたような気分に目がくらみそうになった。それは名づけようのない感情だが、見知らぬ感情ではなかった。いつだって、昔の景色を目にしたら、そんな感情がかすかに沸きあがっていたのだ。ただそのときのような風量で、迫ってくることってなかった。ぼくは、立っていられなくてうずくまりたくなるような、また逆に、どんどん前へと歩んでいける風を背に受けているような、不思議に背反する気分に満たされた。

うまく言えないがこういうことなのだと思う。音楽はときにぼくらの心のレンズをクレンズする。鈍くなった心の機関に油をさしてくれる。 近くのものをより近くに、遠くのものをより遠くに、大きなものをより大きく、小さなものをより小さく見せてくれる。そんなとき、たくさんの灯のついたアパートが、ただそれだけで、豪奢な夜景のように美しくなる。

ジャケ買いという愚行について

ぼくがまだ救いがたいアホだった高校生のころ、一度だけジャケ買いというやつをしたことがあるのだった。
自分でものを考えられないとてつもなくアホだったあのころのぼくは、音楽好きともなれば「ジャケ買い」のひとつやふたつするものだというどこから来たのか知らないイメージを浅はかにも受け入れていたのだ。
それでともだちとCD屋にいったとき、とくに目当てのCDがなくって、まあよくやっていたように、棚に並んでいるCDを眺めていたわけだが、たしか白い背景にライムグリーンの電話機がぽんと置かれている写真のジャケが目に入った。
イメージ画像。↓

無題











マジでこんなんだった。なぜこんなもんに惹かれたのか? ぼくは自分で自分を分からない。イカれていたとしか思えない。
帯の文句もよかったのかもしれないが、ぼくはそれを手にとって、これちょっと買ってみるわ、みたいなこなれた風を装って会計したのだった。「おまえ、そんな買い方すんのな」とともだちは目を丸くしていたのを覚えている。あの一時のぼくはそれをプチ尊敬のまなざしと解釈したが、なんのことはない、こいつアホだなと、ただ呆れられていたのだと、いまにして思う。数多い消し去りたい過去のひとつだ。

あれは、誰のCDだったのだろう? もう名前も覚えていない。cooper temple clauseみたく三つの英単語が並んでいて、うちひとつがangelだったような気がするが、それも定かではない。ネットを駆使して探そうとも思わない。いや、見つけたくない。
たぶんS&Gみたいな音を期待しつつCDを再生したら、単調なバンドサウンドをバックに女声がお経みたいなメロを歌う音楽が流れてきた。即座に自分が重大な過ちを犯したことを自覚した。一分も聞かなかったんじゃないか。ぼくはすぐさまそのCDをトレイから出し、ケースに入れ、棚の奥底に封印し、以来二度と聞いていない。今思えば、そこまでしなくてもって思うし、せっかく買ったんだがらもうちょっと聴いてみろよ、もしかしたら気に入ってくるかもしれないし、とか思うけど、そのときのぼくはただいち早く失敗をなかったことにしたかったのだ。あれだ、ヘッセの蝶を盗むあの少年の気分。どうしようもない恥辱と悔恨。独りで買ったならまだしも、ぼくはあれをともだちに見られていた。「つまり君はそんなやつなんだな」と蔑みの目で・・・。

というわけで、以来ぼくはジャケ買いというのは狂気の沙汰だと思っている。そりゃジャケがカッコいいにこしたことはないが、音が伴わなければなんの意味もない。当たり前の話だ。逆に音がよければ、少々ダサいジャケでもかっこよく見えてくる。そういうもんだ。

それで好きなジャケベストみたいなのを考えてみたのだけど、なんだかんだでぼくのベストはこれなんじゃないか。一見雑多な風でいて、実は絶妙に配置されているもの、がぼくはやけに好きなのだ。

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この時期のオエイシスのジャケはシングル盤もふくめてどれもこれもカッコいい。




もちろん音楽だって最高だった。このころのオエイシスは夢と希望そのものだった。

以下、他のノミネート作品。ジャケを見るとどうしても音が聞こえてくる。音関係なしに選ぶってのはけっきょく無理だな。これらは、ジャケ買いしても、きっと後悔しない内容でもあるかと。


 
ワースト賞はこれですかね。ギャップ感も含めて。この胸毛にクレアを抱きしめてたんですかね。


 

サプライズ/ポール・サイモン

異色作だろう。
もちろんサイモンはアルバムごとにいつも新試行を打ち出してきたミュージシャンだが、このアルバムはその様変わっていくサイモンのキャリアの中でも浮いているように見える。

ジャケからしておかしい。ポールのアルバムは基本的にダサいジャケが多いわけだが、なんだこのつるつる肌の赤ちゃん。こんなのポールサイモンのレコードらしくない。この際なので全部並べておくと

 

見栄えのするアーティのおかげでさまになっているS&G期を除けば、サイモンのレコジャケは基本ダサい。「スティルクレイジー」は素晴らしいレコードだが、その内容と腰に手をあててポーズをとっている「髭サイモン」の落差ときたら。ディランのフリーホイーリンとか、オアシスのモーニンググローリーとか、あんな感じのに出来んかったものか。他はまあ許容範囲だが、たとえば飾っておきたくなるような素敵なジャケというのはひとつもない。
個人的にこのアルバムが出た頃は新しい音楽の方にばかり目が行って、サイモンから離れていた時期でもあって、もちろん出てすぐ買うには買ったが、このジャケにはさすがにがっくりきた記憶がある。サプライズ?そりゃ驚いたよ、ある意味ではね。

とまあジャケはともかく内容のほうも一聴してかなり異質に思えた。このアルバムではブライアンイーノとのコラボがまず取りざたされるわけだが、そのせいかどうか知らないがサイモン史上もっとエレキギターが鳴る「ロック臭」の強いアルバムになっている。こんなふうにエレキギターでジャーンってコードを鳴らす曲ってこれまでにあったっけと。ハイライトの「ウォータイムプレイヤー」なんか、サビの合唱のとこがディランかスプリングスティーンさえ思い起させるスタジアムロックというか、ここへ来てこんなのやるんか、と戸惑わずにはいられなかった。

ロックとは「みんなのうた」なんだと思う。パーソナルな思いが核としてあるにしても、それをアンプを通して文字通り増幅して、共有性の場を作り出すこと。それがロックという音楽なのだ。ゆえに、ロックとはエレキギター、もっといえばアンプリファイアーの音楽だ。
ロック隆盛の時期にあって、サイモンは一貫して個の音楽であり続けた。アートガーファンクルの声という「増幅器」を使うことで、いくらか共有性の場を広げるということはあった(「明日に架ける橋」が最大の例だろう)にせよ、ポールの音楽を愛好するものはつまるところ「個」であることのポールを愛し続けてきた。「みんなのうた」たることを意図して作られた「アメリカンチューン」だろうと、大所帯のアフリカンミュージックに間借りした作品にせよ、孤独なポールはいつもそこにたち現れていた。それはカフェのテーブルごしに語りかけるような彼の歌声と、アコースティックギターの響きのゆえだった。
このアルバムはサイモン史上もっとも共有性の場に踏み入ったアルバムといえるかもしれない。直感的には、ニューヨークのテロ事件に対するリアクションだったという風に思える。直接には言明されていないがオープニングの「どうして北東部に住めるのか?」は911を意識して書かれていると思うし、「花火の音を聴いて、ぼくらは空を見るために飛び出した」なんてフレーズにも、どこかあのビルに突っ込む航空機の映像が重なってくるような気がする。サイモンは911のこの作品への影響をはっきり語ってはいないと思うが、明確な反戦歌である「ウォータイムプレイヤー」が最初に作られたという経緯からして、強く意識してたんじゃないかな。がゆえに、連帯性、共有性みたいなものを、これまでになく欲したということなのかもしれない。
それでイーノに声をかけたということなのか。でもサイモンがイーノに求めていたのが「U2みたいなロック」だったのかどうかはぼくには疑問だ。どこかでサイモンがイーノとのコラボでは、音源を送って戻ってくるのを待ってただけで、コミュニケーションが不足していた、とか語っていたのを読んだ気がするが、これはぼくが捏造した記憶だろうか? いずれにせよ、ぼくとしては、このアルバムはどこか上手くいっていないと思える。なんか時間以上に長く聴こえるんだよなあ。後半の方がいい曲が多いのだけど、なかなかそこまで行けないというか。結局、サイモンの持ち味である個の繊細さをイーノのエレクトリックな音が霞ませてしまった、ということなんだろうか。「ノースイースト」とか「アナザーギャラクシー」とか「ワンスアポンナタイム~」とか「ザッツミー」とかいい曲だと思うんだけどね。その音要る?って思ってしまうところがどうしてもある。いちばんおいしい曲が、イーノが関わっていない「ファーザーアンドドーター」ってところがねえ。

U2とサイモン。



ボノが、導師に会ったかのごとく、マイクを預け合掌して深々と頭を垂れる様は見ていて美しい。
しかし、その後の「ホエアザストリーツ~」の盛り上がりっぷりときたら。これが「みんなのうた」ってやつだ。こりゃかなわねえ、ポールの柄じゃねえわ、とか思っちゃいますね。
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